忍び
出浦守清(?~1623年)
対马守。村上义清の一族という。义清が信浓を追われると、武田晴信の配下となり忍びを操り働いた。自信も忍びであったという逸话が伝えられている。武田灭亡后、森长可、真田昌幸と主を代え、昌幸の元では岩柜城城代、吾妻郡奉行の要职を任される。
横谷左近(?~?)
出浦守清と并ぶ忍びの达者。雁ヶ沢城を守る。昌幸に従い、数々の合戦で功があった。庆长五年の上田笼城の际、昌幸を无事に上田城まで送り届け、そのときの感状が残されている。惣左卫门、庄八郎の二人の弟がいた。
祢津潜竜斎(?~?)
长右卫门。真田家の一族として代々重臣の家柄。忍びであったという。天正十三年の上田城防卫戦で功があった。
壶谷又五郎(?~?)
武田の忍び。真田昌幸が上州沼田城を落とすと、褒美として昌幸に付けられる。以后、真田家の忍びを统制した。
割田重胜(?~1618)
下総守。吾妻七骑の一人。膂力に优れた忍びの达者という。天正十三年の沼田防卫で松田宪秀の乘马を夺ったという逸话がある。のち盗みの罪で出浦守清に讨たれた。
角田新右卫门(?~?)
上野国出身の忍びという。出浦守清に属し、真田幸隆、昌幸亲子に仕えた。永禄六年、岩柜城攻撃に间者として功があった。
有名家臣の一门
铃木忠重(1574~1658年84歳没)
右近。名胡桃城代铃木重则の子。父の死后、真田家の庇护を受け、のち柳生宗章に师事。柳生石舟斎にも剣を习ったという。帰参し信之に仕え、伏见屋敷留守居役などを务める。信之と同年に没した。
真田家臣
河原纲家(?~?)
关ヶ原合戦直前、昌幸は信之、信繁と共に东西どちらに味方するかで论议した。纲家は心配をして戸を开けるが、それに激怒した昌幸から下駄を投げつけられ、前歯を折られたと言う。
白仓武兵卫(?~?)
武田灭亡后、真田家に仕える。幼少の信繁に仕えたという。关ヶ原合戦前に大阪屋敷留守居役。
折田将监(?~?)
佐藤军兵卫。关东无双の刚兵と伝わる。永禄七年、真田幸隆が仙蔵城を落とすと、将监が配置された。
汤本三郎右卫门(?~?)
武田家臣汤本善大夫の甥。善大夫が长筱合戦で讨死すると迹を継ぐ。后に真田家に仕え、同心三十一人を预けられ、六百三十贯余を赐る。天正十年十月、三郎右卫门の家臣石井喜右卫门ら十二名は真田昌幸から安堵状を受ける。
来福寺左京(?~?)
原仁兵卫。武田灭亡后、真田家に仕える。出浦守清の参谋。天正十三年の上田城防卫戦で功があった。
横谷惣左卫门(?~?)
横谷左近の弟。
横谷重氏(?~1615)
横谷左近の弟。庄八郎。真田信繁に従い大阪入城。讨死した。
池田长门(?~?)
庆长五年十二月、真田昌幸、信繁の纪州九度山蛰居に従う。
原出羽(?~?)
庆长五年十二月、真田昌幸、信繁の纪州九度山蛰居に従う。
小山田治左卫门(?~?)
庆长五年十二月、真田昌幸、信繁の纪州九度山蛰居に従う。
青木半左卫门(?~?)
庆长五年十二月、真田昌幸、信繁の纪州九度山蛰居に従う。
饭岛市之丞(?~1615年)
庆长五年十二月、真田昌幸、信繁の纪州九度山蛰居に従う。真田信繁に従い、大坂城に入る。大坂の阵で讨死した。子は寛永三年、信之の扱いに不満を抱いて浪人となった。
关口忠左卫门(?~?)
庆长五年十二月、真田昌幸、信繁の纪州九度山蛰居に従う。
关口角左卫门(?~?)
庆长五年十二月、真田昌幸、信繁の纪州九度山蛰居に従う。
田口久左卫门(?~?)
庆长五年十二月、真田昌幸、信繁の纪州九度山蛰居に従う。真田昌幸の死后、真田信之の下に戻る。子は寛永三年、信之の扱いに不満を抱いて浪人となった。
洼田角右卫门(?~?)
庆长五年十二月、真田昌幸、信繁の纪州九度山蛰居に従う。真田昌幸の死后、真田信之の下に戻る。子は寛永三年、信之の扱いに不満を抱いて浪人となった。
河野清左卫门(?~?)
庆长五年十二月、真田昌幸、信繁の纪州九度山蛰居に従う。
石井舎人(?~?)
庆长五年十二月、真田昌幸、信繁の纪州九度山蛰居に従う。
前岛作左卫门(?~?)
庆长五年十二月、真田昌幸、信繁の纪州九度山蛰居に従う。
三井仁左卫门(?~?)
庆长五年十二月、真田昌幸、信繁の纪州九度山蛰居に従う。
大瀬义人(?~?)
庆长五年十二月、真田昌幸、信繁の纪州九度山蛰居に従う。
青柳清庵(?~?)
庆长五年十二月、真田昌幸、信繁の纪州九度山蛰居に従う。
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